尾崎放哉、本名尾崎秀雄、1885年1月20日、現在の鳥取県吉方町に鳥取県士族の鳥取地方裁判所書記官の次男として生まれた。

 佐高信によれば「人はそれほど起伏の多い人生を送るわけではない。それだけに山の頂きと谷底の双方を経験したような人に惹かれる」ともある。
 1902年一高へ入学した翌年、生涯の師となる荻原井泉水と出会うことになる。
 1905年東京帝国大学入学を機に従妹との結婚を望んだが周囲の猛反対にあい、このあたりから酒によるトラブルが多くなってきた。


 「・・・一灯園生活はご存知の通りの家、寒中、雨戸もたてなければ、火鉢もなし、火種一つなし。朝は五時から、諸方の労働に行きました、(草むしり)から(障子張り)(大掃除)(引つ越し)の手伝、(炭切り)(薪割り)(便所掃除)(米屋の荷車を引っ張って、電車道を危なく、轢き殺されそうにして歩いたときは泣きました・・・(中略)
 そうしている中にどうも(孤独生活)と云う事が求められてたまらぬ。・・・(中略)
 結局、真言宗の当寺に、本年六月に来て、全く(孤独)の生活に入り、只今まで居ります。・・・」
(佐藤呉天子宛:大正13.12.15)   (注:カナをひらがなにしています)
 「啓、色々御面倒かけます、心の中では泣いて居ます、此のお寺(大俗ノオ寺)を去つて又、行雲流水に任せようかと思って居ます、今此のお寺は住職狂ヒ(或ハ争ヒ)でエライ騒ぎです。しかも私が其中にとりこまれそう、法学士なるがために)今暫くしたら・・今少しおちついて考へます。・・(中略)
 (今日本堂で一人で酒をのんでをります)
(小沢武ニ宛:大正14.3.3)
過去の掲載はこちらから
須磨寺の月
 Wikipediaによれば須磨寺は真言宗須磨寺派大本山、山号は上野山、本尊は聖観音とある。
 886年に光考天皇の勅願寺として聞鏡上人が創建した。
 また、源平合戦ゆかりの寺としても名高い。

 その須磨寺に放哉は1924年(大正13年)大師堂の堂守として世話になっている。

 
 尾崎放哉は「動の山頭火、静の放哉」として対比される。同じく自由律俳句の代表俳人として活躍したが、ともに酒での失敗が多かった。
 
法体にほられて石ありけり
淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る
鐘ついて去る鐘の余韻の中
 須磨寺在寺わずか九ヶ月あまり。その後福井県小浜常高寺を
経て、終焉の地である小豆島南郷庵に入る。

 放哉さん、今日も須磨寺は綺麗な月が出ています














放哉