「縁を人に絶って身を法外に遊ぶなど、気取って居るわけでは毛頭ありませんし、また、その柄でも勿論ないのでありますから、時々、ふとした調子で、自分はたつた一人なのかな、と云ふ感じに染々と襲はれることであります。八畳の座敷の南よりの、か細い一本の柱に、たつた一つの背をよせかけて、其の前に、お寺から拝借して来た小さい机を一つ置いて、お天気のよい日でも、雨がしとゝと降る日でも、風がざわゝ吹く日でも、一日中、朝から黙って一人で座って居ります。
(「入庵雑記 海」より)
【参考文献】
・尾崎放哉 随筆・書簡 春陽堂
尾崎放哉記念館
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いれものがない両手に受ける
南郷庵 〜入庵雑記より〜
 「この度、仏恩によりまして此の庵の留守番に座らせてもらう事になりました。庵は南郷庵と申します。も少し委しく申せば、王子山蓮華院西光寺奥の院南郷庵であります。西光寺は小豆島八十八ヶ所の内、第五十八番の札所でありまして、此庵は奥の院となつておりますから番外であります。已に奥の院と云ひ、番外と申す以上、所謂、庵らしい庵であります。
(「入庵雑記 島に来るまで」より)
ここから浪音きこえぬほどの海の青さの
咳をしても一人
 放哉のお墓は尾崎放哉記念館横にある墓地の高台にある西光寺歴代の住職が眠る一角にある。
 お墓の向きは西光寺をはじめとするお世話になった小豆島の方々を見守るかのように建っているのが印象的であった。
西光寺
荻原井泉水あて(大正15年4月5日) 

「西光寺サン電報ノ件、・・・・気休メニ「一軒」知ラシテオキマシタ(親類ノ名ヲ)・・乞御安心。
 (アンタニハ、私ガコロリト参ツタラ土カケテモラウ事ダケ、タノンデ有リマス)ト西光寺サンニ申シテオキマシタ
 親類ト云フ名ヲ・・キイテモ、イヤニナル 呵々
 中々、マダ死ニマセンヨ



 二日後の4月7日 庵の近くに住む漁師の妻、南堀シゲに看取られて南郷庵に死す。享年41歳。
 死因は、癒着性肋膜炎の合併症、湿性咽喉カタル。戒名、大空放哉居士。
 「私は、平素、路上にころがつて居る小さな、つまらない石ツころに向かつて、たまらない一種のなつかしい味を感じて居るのであります。たまたま、
下駄の前歯で蹴とばされて、何処へ行ってしまつたか、見えなくなつてしまつた石ツころ、又蹴りそこなつてしまつて、ヒヨコンとそこらにころがつて行つて
黙つて居る石ツころ、なんて可愛いゝ者ではありませんか。
 なんで、こんなつまらない石ツころに深い愛惜を感じて居るのでせうか。

 つまり、考へて見ると、蹴られても、踏まれても、何とされてもいつでも黙々としてだまつて居る。・・其の辺にありはしないでせうか。いや、石は、
物が云へないから、黙って居るより外に仕方がない無いでせうよ。そんなら、物の云へない石は死んで居るのでせうか、私にはどうもそう思へない。
 反対に、すべての石は生きて居ると思ふのです。石は生きて居る。どんな小さな石ツころでも、立派に脈を打つて生きて居るのであります。
 石は生きて居るが故に、その沈黙は益々意味の深いものとなつて行くのであります。

 よく、草や木のだまつて居る静けさを申す人がありますが、私には首肯出来ないのであります。何となれば、草や木は、物をしゃべりますもの、
風が吹いて来れば、雨が降つて来れば、彼等は直に非常な饒舌家となるではありませんか、処が、石に至つてはどうでせう、雨が降ろうが、風が吹かうが、
只之、黙又黙、それで居て石は生きて居るのであります。
(「入庵雑記 石」より)
尾崎放哉記念館
 放哉在庵当時の南郷庵(みなんごあん)は昭和40年代半ば頃まで同所にあったが
西光寺奥の院大師堂として三重の塔が建立されたのを機に取り壊されました。
 記念館は当時の南郷庵を忠実に再現したもので、内部には尾崎放哉直筆の短冊や写真、
また山頭火の直筆軸(へうへうとして水を味わう)などが展示されています。
 また、別館として「放哉資料館」も近くにあります。